「楢木うだつ」史
生い立ち
2004年8月27日、静岡県静岡市清水区に生まれる。一人っ子として大切に育てられ、3歳頃から清水入江保育園に入所した。絵を描くこと、ダンゴムシを捕まえること、アリを潰すこと、そしてリップクリームを食べることを好む平凡な園児であったと伝わっている。
小学校時代
ある朝、勤務中の母が病院に搬送されたという連絡を受けた。急いで父と一緒に病院に駆けつけたのだが、母はもう亡くなっていた。父とともに呆然としている中、警察の方がやってきて母の死について説明を受けた。死因は、会社に隠れて廃棄予定ののり巻きを頬張ったことによる窒息死であった。食欲旺盛な母らしい最期ではあるが、あまりにふざけた死に方で涙すら出なかった。末代までの恥である。
当時の生活は両親の共働きで成り立っていた。母がいなくなったため静岡に留まる理由もなく、またその時たまたま福岡県豊前市にある祖父の実家が空き家となっていた。福岡に引っ越すのは必然であった。慣れない土地にて楢木はいかに奮闘するのだろうか。
中学校時代
楢木はソフトテニス部に所属していたのだが、コートに立っている時間よりも審判台に座っている時間の方が長かった。その名審判ぶりは市内でも有名になったのだが、時々誤審を引き起こすことから「誤神判(ごしんぱん)」の異名で親しまれた。楢木は後輩のことが大好きで、3年生になっても自分の練習より後輩の指導を優先していたため、団体戦メンバーから外された。
楢木は学習面においては優秀であったものの、生活面で問題があった。楢木は学校の備品をよく破壊した(わざとではない)。その中で最も高額だったのは、テニスコートのポールであろう。ボールを取ろうとしたのだが止まることができず、ネットに突進してしまった。ポールは根元から折れた。ネットがたゆんだまま直らないのを見て、楢木は絶望した。だが、ポールの劣化が以前から問題視されていたこともあり、市の補助金によってすべてのコートのポール・ネットが新しいものに取り換えられた。後輩たちはむしろ楢木に感謝してもよいのではないだろうか。
そんな楢木にも進路決定の時期が訪れた。楢木は大学進学を考えていたため進学校を希望したのだが、工場勤務のバックグラウンドをもつ父は北九州高専の受験を強く勧めた。上述したとおり、楢木は不器用で工業の道はどう考えても向いていなかった(実際に楢木は北九州高専の入試に落ちた)。結局、楢木は地元で一番の進学校と評判の福岡県立京都高等学校に進学することになる。
高校時代
京都高校は確かに地元で一番の進学校ではあったのだが、進学実績は大したことないことに入学してから気づく。むしろ大量の宿題と進みの遅い授業は、楢木の学習を妨害した。楢木は学校を見放し、自分で計画を立てながら勉強をするようになった。その戦略は功を奏し、楢木は中学時代からの高い成績を維持することができた。しだいに自分の能力を過信した楢木は東大や京大への進学を考えるようになるが、過去問を解くうちに自分には無理だと思い挫折した。また父の「絶対に浪人させない」という方針もあって結果的に九州大学に進学することになったのだが、全く後悔はない。むしろ大いに満足している。
高校になっても対策プリントを作っていたのだが、それは高2のときに革新的な発展を遂げることになる。それは予想問題の開発だ。これまで定期考査への対策としてまとめプリントや数学の問題集は作っていたのだが、定期考査の問題を予想するということはしてこなかった。作問者(教員)の視点に立って問題を作るというのは非常に面白く、模試や入試の過去問分析にも通じるところがあった。予想問題は友人からも好評で、自分の中でもやりがいがあった。だが、高3の夏あたりから自分の受験勉強に集中してほしいという理由で、担任から予想問題の発禁処分を受けた。理由は納得のできるものではあったが、楢木にとって予想問題の作成禁止は死を意味した。したがって、楢木は予想問題を最後の定期考査まで作成し、その使命を全うしたのであった。結果として受験にも合格したのだから、教員は何も言えまい。
楢木は高校時代にはバドミントン部に所属していた。だが、ソフトテニスで培った大きなスイングやフットワークはバドミントンには不向きであり、引退するまで修正することはできなかった。したがって、楢木は大会に出ることよりも審判や後輩とのラリーに興じていた。ここで、楢木のバドミントン観を表す名言を紹介しよう。「公園で楽しく羽根を打ち合うのが真のバドミントンであり、速い球を打ったりネット際に球を落としたりして相手をいじめる試合を我々の大半は望んでいない。」
想像はつくかもしれないが、楢木は高校時代に「変人」扱いをされていた。だが、楢木はそれを何とも思っていなかった。というより、慣れてきた。楢木は自分の生き方と貫くことに決めたのである。
大学時代
楢木は九州大学教育学部に進学した。具体的な将来の夢は定まっていなかったのだが、教えることが好き、そして高校への不満というのが楢木の関心を教育へと向けさせたのかもしれない。九州大学には、楢木よりも優秀な人、面白い人、変な人がごまんといる。楢木にとって大学生活は非常に豊かなものとなっている。
楢木は大学においても教育学部の対策プリント係に拝命され、日々作成と質の向上に勤しんでいる。また、今まで本をあまり読んでこなかった楢木だが、教育学や心理学に関連する本も読むようになった。知識の習得は実に気持ちがいい。楢木は楢木なりに大学を楽しんでいるのである。